「子供は親を選んで生まれる」について、まじめに考えてみた。
「子供は親を選んで生まれる」って、スピリチュアル界隈ではよく言われてる言葉。
某絵本作家さんが好んで使うので、一般にもネガティブなイメージでかなり広まった気がする。(私は読んでないし読みたくもないので特に言うことはない。)
だけど「親を選んで生まれるなんて、あるわけないじゃん!」って突っぱねるのは少し違う。
この思想の何がダメなのか。ちょっとまじめに整理してみたい。
途中でゲームとか映画の話が出てくるけどいたってまじめである。
「子供は親を選んで生まれる」の何がダメなんだろう
ダメなのは「子供は親を選んでくること」そのものではなくて、この思想がとらえ方によっては強烈な毒になるということだ。何が危険なのか。
これについてはいろんな人がいろんなところで言及していて、まったくもってそのとおりとしか言えない。
たとえば、虐待されている子供に「子供は親を選んで生まれてくる」なんて言ったら。
それも虐待している親本人が子供に言ったとしたら。
それは虐待している責任を子供に押し付けることになる。
もちろんそんなの絶対にダメだ。
あと、不妊で悩んでいる人にとっては「どうして自分は選んでもらえないんだろう」と思うかもしれない。
流産してしまった人は「私がイヤになってお空に帰っちゃったんだね」って思うかも。
そう思うことで何かいいことある?
悪いことならたくさん思いつくけれど。
子供が親を選ぶ基準について考えてみる
最初に言ったように、「子供は親を選んで生まれる」という考え方自体を否定しているわけではない。
スピリチュアルには詳しくないけど、曲がりなりにも占いを学んでいるので、
目に見えないものを真っ向から否定していたら何も始まらない。
私はスピリチュアルに限らず、「わかっていること」と「わからないこと」は徹底的に分けて考える。「わからないこと」は全肯定も全否定もしない。
私は障害エンジニアでもあるけど、「わかっていること」と「わからないこと」をごっちゃにすると障害部位の特定が困難になる。
余計な思い込みは、真実にたどりつく道を遠ざけるのだ。
前置きが長くなったけど、子供が親を選んで生まれてくるなら、その基準は何だろう?
神様に「全世界から一組だけ好きな親を選んでいいよ」と言われたら、誰の子供に生まれたい?
え…いまのご両親?
うっ、まぶしい……。
私は、なんでも買い与えてくれる子煩悩なアラブの石油王かなあ。
これTwitterでも書いたら、「アメリカの大富豪」とか「DAIGO夫妻」って教えてくれたフォロワーさんがいた。
だよね~~~~~!!!
これがまかり通ってしまったら、北川景子は何人の子供を産まなきゃいけないの。
天国に順番待ちの赤ちゃんの行列がずらーーーーーだよ。
ついでに容姿も人生も選べるなら、誰もが見とれる美女になって食べても食べても太らない体にし、なりたいものになんでもなれる人生を選ぶ。
だけど現実は悲しいもので、私の親はものすごく暴力を振るったし、
人生は今のところ悪くないけど、そんなに食べてないのに太る。解せぬ。
ということは。
「親を選べない」とするには早計だ。順番に考えよう。
(仮定)魂というものがあるとして、自由に生まれてくる親を選べるとして。
(事実)良い人たちに必ずしも子供ができるわけじゃないし、虐待する親の元にも子供は生まれる。
それなら、選ぶ基準は「この世の価値観とは違う」ということじゃない?
もしくは、「何かしらの条件があって自由には選べない」ということじゃない?
だから「子供は親を選んで生まれてくるかもしれないけど、選ぶ基準やルールは謎」。
これがこの思想について、可能な限り現実と照らし合わせて論理的に導き出せる答えの限界ではないだろうか。
それ以上はもうわかんないよ。確かめようがないもん。
それを「私を気に入って選んでくれたのね」とか、あるいは「私がだめだから赤ちゃんが来てくれない…」なんていうのは、限界を超えた解釈なのでは。
都合の悪い事実を無視して、天を見て地に足がついていないということ。
何を信じたっていいけれど…
人の思想のことだから、宗教と同じで何を信じたって良い。
でも、それによって誰かが犠牲になることは、特に逃げられない立場の子供が犠牲になることはあってはならない、と思う。
親は子供の身も心も守る立場でいなくては。
自分の思想が子供にどう影響を与えるかっていうのは、いつも考えていきたい。
ちなみに、スピリチュアルな界隈をはじっこから見ていると、生まれる前の魂が親を含めて人生を選んでいるのは、魂の経験を積むためらしい。
経験を積む目的まで言及すると、宇宙が出てくる壮大な話になるので置いておこう。
つまり、今の私たちの幸せの価値観じゃなくて、魂の価値観でいわば修行コースを選んでいるから、魂が「あえて厳しい人生を選ぶ」っていうのはあるという。
もう一回言うけど、思想そのものより、そのとらえ方(使い方)が重要。
特に誰かに伝えるときは、それが与える影響について考える必要がある。
そもそも、たとえばクリスチャンでもない人に聖書の一節を読んで、その真意が正しく伝わるかっていったら、けしてそうではないはずだ。
その点では、受け取り手自身も真意を汲み取れるほどの情報を持っていないことに注意して、安易に”思想そのもの”を否定すべきではないと思う。
魂はプレイヤー、肉体は主人公
ゲーム脳の私はすぐゲームに例えちゃうんだけど。
生まれる前に親も人生も決めるというさっきの思想について、RPGに例えてみる。
魂はプレイヤーだ。
どんな難易度でどんなシナリオのゲームをプレイするかは、プレイヤーが選ぶ。
ゲームの目的は、プレイすることによって得られる経験。
プレイヤーは主人公としてゲームの世界に入り込み、その世界を通してさまざまな経験をしていく。
ちなみに私は、日々の行動を選択する大切さをペルソナシリーズで学んだ。
対して、肉体はゲームの中で実際に動く主人公そのものだろう。
ここで考えてみた。
ゲームをプレイしていたら、登場したモブがいきなり「このゲームをプレイするってお前が決めたんだよな」とか言ってきたら、どうだろう。
「魔物に村を滅ぼされて怒ってるけど、そういうゲームってわかってて自分で選んだんだよ」とか。
は?だから何??
主人公にその話関係ある??
ゲームの登場人物が次元を超えてプレイヤーに直接話しかけてることにならない??
かなり特殊なゲームだよそれは。(なんかそんなゲームやったことある。)
いきなり世界観をぶちこわさないでほしい。
でも、つまりそういうことじゃないの?
虐待で苦しんでいる子供に「あなたが選んだ人生ですよ」と言うのは。
虐待に限らず、魂が選んだからどうのこうのというやつは、いま現在苦しんでいる人にはまったく関係がないし、そういう人に向ける言葉じゃない、と私は思う。
「魔物に村を滅ぼされたのも自分が選んだことだし、怒るのはおかしいよね…」
とか、もし主人公が言い出したらさいあくだよ。
そこは怒っていいでしょ。
憎しみを胸に旅に出て、新たな地で出会った仲間と数々の困難をくぐり抜け、
「おまえ、最初は復讐のために生きてるって感じだったけど…いい目になったよな」とか言われて、仲間との確かな絆を感じさせてくれよ。
ゲームの目的がプレイによって得られる経験なら、プレイヤー(魂)が主人公に望んでいるのは、ただ目の前で展開される物語に驚いたり、怒ったり、悲しんだり、喜んだりすることじゃないのか。
主人公はプレイヤーのことなんか考えなくていいから、自分の物語に集中してほしい。
私が一番好きなシナリオのゲームは幻想水滸伝2。
生まれてきた目的を果たせなかったかぐや姫
ゲームの話から突然変わるけど、高畑勲監督の「かぐや姫の物語」のなかで、月から迎えがくることを明かすかぐや姫のセリフに、私はいつも胸を締め付けられる。
ここからしばらくオタクの早口になります。
ああ私は、生きるために生まれてきたのに。鳥や獣のように!
「かぐや姫の物語」より、かぐや姫
翁は、竹から生まれた神秘的なかぐや姫を「高貴の姫君に育てよ。そう天がお命じになっている」と思い込んで、ひとり突っ走ってしまった。
だけど、翁に用意された生活は、月にいたかぐや姫が心から望んだ「生きる」ことではなかった。
翁はかぐや姫を本当に愛していたのに、かぐや姫の心という現実と向き合わず、「天のお命じ」を妄信した結果、愛するわが子を苦しめ、失ってしまった。
私は翁のようにはなりたくない。
かぐや姫のように、自分の人生を生きなかったことへの後悔もしたくない。
「子供は親を選んで生まれる」を信じるのはいいと思う。
だけど、現実とそうでないことの区別はつけておきたい。
目に見えない世界のことは、この世界に生きている限り、正解はわからない。
だからまずはしっかり現実と向き合って「生きる」。
その上で自分の世界観とマッチして、「生きる」助けになる思想なら取り入れたい。
でも、その思想が自分や大切な人を傷つけるという現実を生まないように。
現実より優先されるスピリチュアルや宗教なんてない。
それもひとつの、私の思想だ。
じゅりえ