【小説】転がるトマト(後編)

小説
スポンサーリンク

食事で火照った頬に夜風が心地良い。
彼の電話は長引かず、メインディッシュには間に合った。
サプライズの誕生日ケーキも美味しかった。私は幸せだ。

私は幸せだ――心からそう感じる時、私は小さな点から飛び出して、器の自分になったような気分になる。

彼と付き合いだしてからは、こんな風に時折自分の存在をはっきりと認識できるような気がする。

いつもは司令塔となり手足を動かしているだけの自分の視点が変わって、手がよく見えて、身体の重みを感じる。
こんな不思議な感覚が、私は新鮮で嫌いじゃない。

彼の穏やかなところが私はとても気に入っている。

喧嘩をしても、決して声を荒げたりしない。
落ち着くまで距離を置いて、後で彼から仲直りのきっかけを作ってくれる。

こういう記念日もそれなりに祝ってくれる。
きっと一緒に住んだら家事もそこそこやってくれそうだ。

彼と一緒なら、こうして器の自分になったまま一生を終えるのも悪くないと思える。

だから、これ以上不安を煽らないでくれ――私は祈るように前を転がるトマトを見つめた。

トマトは「帰り道は知っていますよ」と言わんばかりに堂々と先頭を切っている。
一体、なんだというんだ。

今まで現れてはすぐに消えていたくせに、今日は一日中付きまとってくる。

変なトマトに目をつけられたものだ。
トマトにも人間のようにいろいろなタイプがいるらしい。

「あのさ」
 人気のない道でふいに彼が立ち止まった。

「今日ごめん、せっかくの誕生日なのに電話してばかりで」

あ、今それに触れるのね、と意表を突かれつつも、気にしてない素振りで彼に答えようとした。
だが、彼の緊張した面持ちを見て、私は言葉を一旦呑み込んだ。

「今日、というかここずっと言いたかったことがあって。今日は止めようかと思ったんだけど……やっぱり今日言おうかと……」
最後の方はごにょごにょと歯切れが悪い。

何だか分からないけど覚悟を決めた方が良さそうだと、妙に緊張する自分を落ち着かせた。

トマト、今は視界に入らないでくれ。

「結婚しよう」
 差し出されたのは指輪だった。彼の手が少し震えている。

「え、私と?」
「え、他に誰がいるの?」
彼のきょとん、とした顔をしばし見つめる。

他には誰もいなかった。
心配性の連絡魔の女などいなかった。

安堵のため息とともに、涙がポロリと零れて恥ずかしい。
私は指輪を受け取って、うんうん、と頷いた。

「良かった……ごめん、本当は食事の時に言おうと思ってたんだよ」
「今日はごめんばっかりだね」
私は身体の隅々まで私になっていた。私は幸せだ。

最寄り駅で彼と別れ、コンビニで結婚情報誌を購入し、私はうきうきと帰路に就いた。
道は暗くて不審者がよく出るため、本来はうきうきせずに歩くべきなのだが、今だけは人類が皆平和であるような気がした。

だが、そんな謎の自信は一瞬で崩れ去った。

何かに躓きそうになり、前のめりになりながらなんとか耐えたところで私は息を呑んだ。

躓きそうになったのは、不審者ならぬ不審なトマトだった。

彼にプロポーズされてからすっかり忘れてその姿を見なかったのに、こんな家まであと僅かのところで出くわすとは。

トマトは街灯の下でプルプルと小刻みに震えている。

なんだ、文句でもあるのか。言ってみろ。やーい――

(――あのトマト、まな板からぽーんと飛び出して、ころころ転がって逃げてくれないかな)

私は耳を疑った。トマトが喋っている。

(――そうしたら、今日はトマト、食べなくてすむのになあ)

トマトはさらに話し続けた。トマトがトマトを食べるのを嫌がっている。
意味が分からない。

(――お母さん、どうしてあんなに怖い顔をして毎日トマトを食べさせようとするんだろう)
(――他に身体に良い野菜だっていっぱいあるのに)


私はハッとした。あれは私だ。

幼い頃、私はトマトが大嫌いだった。

それなのに、ヒステリックな母親が目を吊り上げて、身体に良いからと無理やり私に食べさせていた。
気持ちが悪くて嘔吐いて涙が出てきても、口に押し込んで全て呑み込むまで許してはくれなかった。

それが毎日のように続くので、食事の時間は苦痛で仕方がなかった。

忘れていた。いつからか私は、こんな強烈な思い出を忘れ去っていた。
今日だって、私は普通にトマトを食べていたじゃないか。

トマトが黙った。私をじっと見つめているが、その赤くて丸いフォルムから考えを読み取ることはできない。

じり、と私が一歩踏み出すと、トマトもじり、と一歩踏み出した。
互いに歩み寄る。

まずは、話をしようじゃないか。
私は今までお前を無視してきたけれど、お前は私に何か大事な用があるんだろう。

一拍置いて、トマトは私の胸をめがけて飛んできた。
避ける間もなく、トマトは私の身体にぶつかり、そのまますうっと中に入ってしまった。

鼓動が速くなり、耳鳴りがして、頭がふわふわするような感覚を覚えた。

しかし、十字路の右から左から正面から、次々とトマトが転がってくるのが見えると、私はその場でぼうっとしているわけにもいかなかった。

これはまずい。平和的に解決する意志はなさそうだ。

逃げようと踵を返すが、後ろからもトマトが押し寄せてきていた。
私の元に辿り着いたトマトから、最初のトマトと同じように身体の中に飛び込んでくる。

激しい頭痛と眩暈と吐き気で前後不覚になる。私はその場に崩れ落ちた。
崩れ落ちてもなお、たくさんのトマトが私の中に入ってくる。

トマトが入ってくるたびに、私の脳内では母の金切り声、父の怒声、誰かが嘲笑うような声、その他様々な音と映像と匂いと感情が、がさがさ、ごうごう、きーんと響き渡った。

どのくらい経ったか、耳鳴りがさあっと引いた。
辺りを見渡しても、もうトマトの姿はない。

終わってみると、症状はあっけなく消えて、ほろ酔い気分もすっ飛んで、頭の中は驚くほどすっきりとしていた。

夜風が吹いて、鼻から空気を思いっきり吸い込む。
遠くの看板まで見えてなんだか視力も上がったようだ。
手も足も重みがあって、ほんのり温かい。

目を閉じて、私は小さな点の私を探してみた。
しかし、どれもただの私の細胞で、頭に埋め込まれた小さな点は見つからない。

おーい。私は頭の中に住む友人たちに声をかけてみた。
彼らの返事は無い。しかし、どこかでくすくすと笑っているような感じがする。

なんだ、転がるトマトは不幸の象徴じゃなかったのか。

トマトを転がしていたのは私自身だ。
私が私のために捨てたい感情を、記憶を、思い出を、トマトに乗せてころころ転がして逃げていただけだ。

小さな点の私は消えた。
私は私の経験することすべてを消化して私自身の栄養にする。
トマトでもなんでも、私の身体の一部にしてやればいい。

翌日、私はトマトを買ってきた。
一応、転がると嫌なのでなるべく歪な形のものを選んだ。

洗って、切って、皿に並べる。

目を閉じると、母の怒った顔がはっきりと脳裏に浮かんだ。
そして、私に笑いかける母の顔も思い出すことができた。

母は今、どこでどうしているだろう。
逃げた先では幸せを感じているだろうか。
私のことは時々思い出しているだろうか。
私が結婚すると聞いたら、何を思うのだろう。

祖母に母の連絡先を聞いてみよう。きっと祖母なら知っているはずだ。
感動の再会や祝いの言葉なんか期待しない。
私はただ母に言ってやるのだ。
私は幸せだ、と。

私はトマトを一つ口に入れた。
嘔吐くとともに涙が出る。

「――不味い」

※この小説は過去に文学フリマにて出品した「星霜」に掲載したものです。
(サークル名:淵野辺学院)

タイトルとURLをコピーしました